1-2.人類誕生前の歴史 神話と科学で語る世界の始まり②
こんにちは。
前回の【神話から見た世界の始まり】で、大昔の人々は神話によって「宇宙・世界のはじまり」を説明したんだって勉強しましたね。
「宇宙・世界のはじまり」に関する神話=創世神話
オタせか世界の歴史講義第2回目は、
【人類誕生前の歴史 神話と科学で語る世界の始まり①】の続編!
”科学から見た世界の始まり ~宇宙のナゾに挑んだ科学者たち~”を勉強していきます。
人類誕生前の歴史
~科学から見た世界の始まり1⃣~
宇宙のナゾに挑んだ科学者たち
皆さんはこの世界・宇宙の始まりについて考えたり、調べたりしたことがありますか?
私は、小栗旬さんと岡田将生さん主演で実写映画化されたことでも有名な、小山宙哉さんの漫画『宇宙兄弟』を読んでいた時に、ふと「そういえば、自分たちの住む地球や宇宙の誕生について何も知らないなぁ…学校でも習ったことないし(ブログ主はガチガチの文系でした!)……」と思って、世界の始まり[=宇宙と地球の誕生]など宇宙に関することについて調べました。
調べてみて思ったのは、「面白い!ワクワクする!でも、難しい!分からん!」です。
だって、宇宙誕生に関しては調べても現時点で標準化されていることしか分からないんだもん(-_-;)。。。。。
1+1=2とか、セカイシは漢字で世界史って書くとか、そういった答えがないからです。
宇宙に関するナゾは、歴史上多くの科学者たちが挑んできたことであり、そして今なお多くの科学者たちが挑んでいる難問です!!
今日は、世界史の教科書で習う、宇宙のナゾに挑戦してきた科学者たちについて、ニュートンまでですが勉強しましょう(*´ω`*)
ちょっと長いですが、世界史の文化史の勉強になるので、頑張りましょう(^_-)-☆
取り上げて勉強するのは、アリスタルコス、プトレマイオス、コペルニクス、ジョルダーノ=ブルーノ、ガリレオ=ガリレイ、ケプラー、ニュートン の7人です。
ジョルダーノ=ブルーノは、科学者ではなく哲学者ですが、コペルニクスの太陽中心説[地動説]を支持し、宗教裁判にかけられて火刑となった人物として、世界史の用語集に載っている人物なので、+あるふぁーとして紹介します!
アリスタルコス
アリスタルコス〔前342頃~前271年頃〕
サモス島出身の古代ギリシア、ヘレニズム時代の天文学者。
地球は自転しながら、太陽の周りを公転している、つまり、自分たちの住んでいる地球が宇宙の中心にあるのではなく、太陽が中心にあり、地球がその周りを回っているという太陽中心説[地動説]を唱えた人物。
アリスタルコスが、このように唱えた頃は、自分たちの住む地球が宇宙の中心にあり、地球の周りを太陽を含む他の天体が動いているという地球中心説[天動説]が信じられていました。
というのも、地球上に住む人々の目には、太陽が1日に1度、東の地平線から上り、西の地平線へと沈んでいくように見えたので、そのままその現象を捉えて、地球が中心にあるんだ!空が動いているんだ!と思ってしまったんです。
あのギリシア最大の哲学者であるアリストテレス[前384~前322年。プラトンの弟子で、アレクサンドロス大王の家庭教師も務めたスゴイ人]も、宇宙は有限で球体であり、我々の住む地球が宇宙の中心にあると思っていました。
ちなみに、世界史の教科書には載ってないけど、「宇宙の中心は地球ではない。地球が太陽のまわりを回っている。」と歴史上最初に唱えたのはフィロラオス[ピロラオス。前470頃~前385年]って人で、ピタゴラス教団のメンバーだった人物です。
プトレマイオス
プトレマイオス〔生没年不詳:2世紀/83~168年頃?〕
エジプトのアレクサンドリアで活躍した古代ローマ時代のギリシア人天文学者・数学者・地理学者で、地球が宇宙の中心であるとする地球中心説[天動説]を唱えました。
ギリシア天文学を集大成し、自身も唱えた地球中心説[天動説]を展開した著書『アルマゲスト[天文学大全]』は、天文学の基礎として親しまれました。
地球中心説[=天動説]は、その後、中世ヨーロッパ期に形成されたキリスト教的世界観と強固に結びつき、地球中心説[天動説]がキリスト教的に正しい考え方=正統であると位置づけられ、約1400年間にわたって、人々に固く信じられることとなります。
また、プトレマイオスは地理学で初めて緯度と経度を使って、科学的な世界地図を書いたことでも有名。
コペルニクス
コペルニクス〔1473~1543年〕
ポーランドの聖職者であり、医者であり、天文学者でもある。
聖職者や医者としての仕事で忙しい日々を送る中、天体観測を行って、手に入れた『アルマゲストの要約』を研究。
『アルマゲストの要約』を元にプトレマイオスの理論を検証していく中、地球中心説[天動説]では惑星の動き[…惑星の逆行]などの説明に無理があると気付き、「改めねば!」と修正作業に取り掛かかりました。
結果、「地球や他の惑星が太陽の周りをぐるぐると回っていると考えれば、惑星の動きを無理なくきちんと説明できる」=太陽中心説[地動説]という結論に達しました。また「中心を太陽に置き換えて考えた方が、惑星が秩序だった動きをする美しい宇宙の姿を説明できる」と考えました。
1515年に『アルマゲスト』の全文を翻訳した本が出版されると、それを手に入れたコペルニクスは、『アルマゲストの要約』には書かれていなかった部分を検証する必要があるとし、20年以上の月日を費やして計算と何度かの観測(合計27回の観測しか行っていない)を行いました。
地動説を確信したコペルニクスは『アルマゲスト』の内容を修正する目的で『天球の回転について[天球回転論]』の執筆を始めました。友人に『天球の回転について』の出版を勧められましたが、首を縦には振りませんでした。
でも弟子の猛烈な「出版しましょう」攻撃にあい、渋々出版を決意。原稿が完成するも、校正[…他の人が文字や文章の誤りがないかチェックすること]中の1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れて半身不随となりました。1543年5月4日、『天球の回転について』がついに完成し、コペルニクスの手元に届きましたが、ちょうどその日、コペルニクスは息を引き取りました(70歳)。
ちなみに、コペルニクス自身は存命中も死後も異端審問にかけられたことはないけど、著書『天球の回転について』は、コペルニクスの死後の1616年に、禁書目録に登録され、閲覧停止になっちゃったことがあるよ。
+ あるふぁー
ジョルダーノ=ブルーノ
ジョルダーノ=ブルーノ〔1548?~1600年〕
イタリアの哲学者であり、ドミニコ会の修道士。
コペルニクスの『天球の回転について[天球回転論]』を読み、太陽中心説[地動説]を支持しましたが、天体の観測や実験などに基づいて主張したわけではありませんでした。
また、コペルニクスの太陽中心説[地動説]では、宇宙は球形で有限である、つまり丸いボールのような形の有限の宇宙の中で、太陽を中心に地球などの天体が完全な円を描いて回っており、運行のスピードも一定で変わらないとしていましたが、ジョルダーノ=ブルーノは、宇宙は無限に果てしなく広がっており、宇宙の中心は存在しないとしました。
また、地球はキリスト教で考えるような特別な星ではなく、宇宙にあるたくさんの星の中の一つに過ぎず、地球のような星がこの宇宙のどこかにたくさん存在しているはずだと主張しました。
太陽中心説[=地動説]や反キリスト教的な汎神論[…神を超越的な存在であるとはせず、この世界に存在する森羅万物全てが神そのものであるという考え方。キリスト教では、神という超越的な存在が世界や万物を創造したとしているため、汎神論はキリスト教にとっては無神論と等しく、異端視された。]を唱えたため、ジョルダーノ=ブルーノは異端とされ、7年の投獄の末、1600年2月17日、ローマで火刑となりました。
この時のブルーノの様子が、ガスパール=ショップという学生が両親に宛てた手紙に記されています。ジョルダーノ=ブルーノは、処刑を宣告する執行官に向かって赦しを請うのではなく、「私に宣告を下しているあなた方のほうが、宣告を受けている私よりもずっと真理の前に恐れ慄いているではないか」叫び、舌枷を嵌められたそうです。そして、刑執行の直前、司祭が神に最後の赦しを乞う機会を与えようと十字架を差し出したにも関わらず、ジョルダーノ=ブルーノは侮蔑するようにチラリと見ただけで顔を背けたそうです。火刑が執行され、炎の熱で肉が爛れ焦げていく苦痛にも、一切うめき声を漏らさなかったらしいです。
ガリレオ=ガリレイ
ガリレオ=ガリレイ〔1564~1642年〕
「近代科学の父」と呼ばれるイタリアの物理学者・天文学者で、実験や観察を重要視しました。
コペルニクスの頃はまだ望遠鏡というものはなく、天球儀というものを使用していましたが、17世紀になり、オランダで望遠鏡が発明されたという噂を聞いたガリレオ=ガリレイは手作りの天体望遠鏡を作り、観測を行いました。
その結果、凹凸はなくツルツルな表面の完璧な球体とされた月のクレーターを発見して、月が完璧な球体ではないことを明らかにしたり、木星の4つの衛星[…ガリレオ衛星と呼ばれる]を発見して、全ての星が地球の周りを回っているという学説を覆したり、金星の満ち欠けを観測して、金星も太陽のまわりを回っているということを明らかにしたりしました。
ガリレオ=ガリレイは科学的な観測データに基づいて太陽中心説[地動説]が正しいことを証明しましたが、1616年にローマ教皇庁[法王庁]の検邪聖省から呼び出しを受け、太陽中心説[地動説]を唱えないように警告を受けました。
その後、教皇庁の審査を通り、1632年に『天文対話』を出版。けれども、3人の人物が4日間の間、プトレマイオスの地球中心説[天動説]とコペルニクスの太陽中心説[地動説]について対話する会話式で書かれた『天文対話』の中で、ガリレオ=ガリレイは明らかに太陽中心説[地動説]の方を支持しているとされ、64歳の時にガリレオ=ガリレイは宗教裁判にかけられて有罪となり、無期限の投獄が言い渡されました。
投獄前に、太陽中心説[地動説]が間違いであると誓わされたが、この時の逸話として「それでも地球は動いている」と呟いたとされていますが、現在は、この逸話は作り話だと言われています。
裁判の後、無期限の投獄は取り消され、故郷に送り返されましたが、フィレンツェ郊外の家を離れることを禁じられ、軟禁状態となります。そんな生活の中でもガリレオ=ガリレイは科学の研究を続けました。やがて両目を失明しますが、弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記によって『新科学対話』を執筆。1638年にカトリックが介入できないプロテスタントの国であったオランダで『新科学対話』を出版し、その後、1642年1月8日、77歳でその生涯の幕を閉じました。
ガリレオ=ガリレイの死から350年後の1992年10月31日、ローマ法王ヨハネ=パウロ2世[ヨハネス=パウルス2世]がガリレオの裁判は誤りだったと認め、ガリレオに謝罪しました。こうして、ガリレオ=ガリレイは名誉を回復しました。
ケプラー
ケプラー〔1571~1630年〕
ドイツの数学者であり天文学者。
1601年にティコ=ブラーエ[…デンマークの貴族で天文学者。当時としてはかなり正確な天体観測を行ったことで知られる。]が亡くなると、助手であったケプラー[ヨハネス=ケプラー]が膨大な観測データを引き継ぎました。そのデータを整理し分析している際に、ケプラーは火星の観測記録におかしな点を発見。コペルニクスと同じように、天体の軌道は太陽を中心として完全な円を描くと思っていましたが、火星以外の惑星も完全な円ではなく、楕円を描きながら太陽のまわりを回っていることに気付きました=惑星の楕円軌道の法則の発見。
楕円軌道の法則は、面積速度一定の法則[…惑星が楕円軌道上のどこを動いていても、惑星と太陽を結ぶ直線が一定時間内に描く面積は惑星ごとに一定である。面積が一定になるということは、惑星は太陽に近い時には速い速度で動き、太陽から遠い時には遅い速度で動いているということでもある]と調和の法則[…惑星が太陽のまわりを回る公転周期の2乗は、軌道長半径(楕円の長いほうの直径の半分のこと。楕円軌道の半長軸)の3乗に比例する]と共に「ケプラーの法則[惑星の三法則]」と呼ばれています。
「ケプラーの法則」により、より正確に惑星の運動を説明できるようになったため、太陽中心説[地動説]が数量的に確立しました。
こんな感じのスゴイ人物だが、ケプラーは貧乏神に好かれていたのか、常に貧しい生活を送っていたそうで、暦を作ったり、星を見てその人や将来を占う占星術をしたりして生計を立てていたそうです。
ニュートン
ニュートン〔1642~1727年〕
イギリスの物理学者であり数学者であり天文学者。
ガリレオ同様に、古典力学・近代物理学を確立したニュートンは、「近代科学の父」と呼ばれる。
ニュートンの生い立ちは複雑。ニュートンのお父さんはニュートンが生まれる3か月前に亡くなっていたんだけど、ニュートンが3歳の時にお母さんが再婚したため、ニュートンは祖母と暮らすことになりました。そのため、幼少期にお母さんからの愛情を受けることができませんでした。ニュートンは、自分からお母さんを奪った義父を許すことができず、母と義父のいる家に放火して殺してやろうと考えるほど、小さいときは、義父や自分を置いて行った母を恨んでいたそうです。
こんな感じの幼少期だったせいか、友達を作らず自分の殻に閉じこもり、いつも一人ぼっちでした。そのため、身の回りの自然・自然現象や物などに興味を持つようになり、日時計を作ったり、どうして鳥は空を食べるのかというようなことを考えたりするようになりました。
こうして学問に興味を抱いたニュートンは、学校で学ぶようになり、18歳(1661年)の時にケンブリッジ大学トリニティ=カレッジに入学。22歳(1665年)の時に同大学卒業した後も、ケンブリッジ大学で研究を続けていました。けれども、ロンドンでペストが流行し始めると、その影響で大学が閉まることになりました。
その間、故郷に帰ったニュートンは、静かで落ち着いた環境の中で、リンゴが木から落ちるのを見て、あの「万有引力の法則」[…全ての物と物は互いに引っ張り合っている]のヒントを発見(…「万有引力の法則」は1670年代終わり頃に確立。著書『プリンキピア』[…『自然哲学の数学的原理』の略称で、万有引力の法則とそれに基づく力学・天文学の研究を集大成した]で体系化)。
その後、ペストが収まって大学が再開されると、順調に出世し、26歳にしてケンブリッジ大学の教授になりました。その後、1689年には大学代表の国会議員に選ばれ、1696年には造幣局幹事、1699年には造幣局長官となり、1703年には王立協会会長になるなど、国の重要人物となりました。
天文学的には、ニュートンの「万有引力の法則」の発見によって惑星が太陽から離れず、太陽のまわりをまわり続ける理由が説明できるようになり、また、物体が地球の中心に向かって落ちるのは、地球が宇宙の中心だからだという地球中心説[天動説]の考えを否定できるようになりました。
また、ニュートンは、微分積分法の研究でも知られています。
まとめ
今回、宇宙のナゾに挑んだ科学者として、紹介したのは世界史の教科書や資料集に載っている人物だけにしましたが、他にもハレー彗星の名の由来になったエドモンド=ハレー[1656~1742年/イギリス…ハレーは、1682年に自分が観測した彗星が、ケプラーが75年前に観測していたものと一緒だと気付き、この彗星が75・76年の周期で地球に近づいてくると考えた。ハレーは「1757年か1758年に再びこの彗星を見ることが出来る」と予言した。その予言の通り、彗星が1758年に観測されたため、その彗星はハレー彗星と名付けられた。]や、ウィリアム=ハーシェル[1738~1822年/イギリス…もともと音楽家になることを目指してドイツからイギリスにやって来たけど、天文学に魅了され、当時では一番大きな天体望遠鏡を自作。長い間、太陽系には惑星は6つしかないと思われていたが、1781年にハーシェルは土星の外側にもう一つ惑星があることを発見した。こうして発見されたのが天王星。]など、多くの科学者が宇宙のナゾの解明に尽力してきました。
そして、今もなお、たくさんの科学者たちが宇宙のナゾに挑んでいます。
目覚ましい科学技術の発展により、徐々に宇宙のナゾが解明されていくと思うとワクワクしますね。
また、ホリエモンこと堀江貴文さんが設立した、ベンチャー企業であるインターステラ社のロケットが、民間企業単独として2度目のロケットの打ち上げに成功したニュースや、衣料品の通販サイトであるZOZOの元社長である前沢友作さんが月に行くというdearMoonプロジェクトなんかが話題になっていて、宇宙がより一層身近なものになってきてるんだなぁって感じますね。
地球中心説[天動説] vs 太陽中心説[地動説]に関連する漫画
あっ、そうそう。
魚豊さんの『チ。ー地球の運動についてー』という漫画。 知ってる??
最近スゴイ注目されてますよね!
この漫画を読むと、コペルニクスやジョルダーノ=ブルーノ、ガリレオ=ガリレイの頃に、キリスト教の教義と異なる太陽中心説[地動説]を唱えることが如何に難しく大変だったか分かります!
ちょっとグロい描写もありますが、『チ。ー地球の運動についてー』の1巻を読むだけでも当時の様子をイメージしやすくなると思うので、是非読んでみて下さい!
ではでは、
オタせか世界史講義第3回の
【1-3.人類誕生前の歴史 神話と科学で語る世界の始まり③】で会いましょう♪
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